Ron's Backlog

奔放不覊

手長と足長

やれやれ。SNSの利便性にかまけて文章を書かなくなっていました。いろいろなことがありましたが、なんと言うか自身の方向性というか、知りたいことも見えてきたので、10年ちょい前に様々な出会いをもたらせてくれたブログに回帰していこうと思います。

と言っても、ここに記されることは読書感想文と旅行記のようなものです。人の役に立つような記述ではなく、自身の記憶の整理であり、思考の経緯をプロットして振り返ってみる試みでもあります。即ち、散文であり駄文であることが前提です。ただし、それを定期的に読み返すことによって、自身にどのようなフィードバックをもたらすのか、記録していこうと考えています。

 

取り急ぎは、読書の記録から・・・。喜田貞吉氏の「土蜘蛛研究」を読んでみました。

 

本書を読むキッカケは、諏訪大社を参拝した際にお会いした手長神社の宮司さんです。こちらの宮司さんは、複数の神社を兼務しているとのことでしたが、手長、足長を含む近隣の神社の見所や歴史を懇切丁寧に説明してくださり、私の神社巡りの礎にもなっています。

当時の私は、諏訪大社(4社)の参拝と、相方の祖母が疎開した地域を散策することを目的として旅行していました。このため(正直なところ)、手長神社や足長神社に興味があったわけではなく、”ついで”・・・というと言葉は悪いですが、帰り道に立ち寄った神社だったのです。が、手長神社にあった立て札を読み、心惹かれるものがありました。社務所に伺うと、宮司さんはご不在だったのですが、諏訪大社社務所に電話したところ、宮司さんに連絡してくれ、颯爽と戻ってきてくれ、前述のとおり、嫌な顔ひとつせず説明してくださった次第です。

宮司さんの話では、枕草子に手長足長の一節があるそうです。視界の隅に映る手長・足長を見て、忌み笑っているように見えます。(私には、古文など文学的なセンスは皆無なので、あくまでも個人的な感想です)

清涼殿の丑寅(うしとら)の隅の,北のへだてなる御障子は,荒海のかた,生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる。上の御局の戸を押し開けたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ

「<<京都>>御所と離宮の栞(京都御所)」より引用

 

喜田氏は、民族の慣習の観点より、手長・足長は古代の膳夫(給仕人)を司る役職(もしくは役称)であり、土蜘蛛と呼ばれる先住民(或いはその者たち)ではないか、と説いています。

私自身も、縄文の時代が一万年続いたことを考えれば、国内の様々な土地で、異なる豪族(もしくは種族)が集団生活していたことは想像に難くなく、ひいては国家形成の段階で、緩やかな中央集権を図るために、統合した種族を人で非ない者として、記しておいたのではないかという考えが、頭の中を過ぎってしまいます。

 

本書では、以下のように記してあります。

足長の神は他に所見が少いが、手長の神は各地に多い。延喜式には、壱岐国壱岐郡手長比売てながひめ神社、同国石田郡天手長男あめのてながお神社・天手長比売あめのてながひめ神社があって、後の二社は名神大社と仰がれ、その手長男神社は同国一の宮ともなっている。祭神は一宮記に、天思兼命あめのおもいかねのみことの一男とあるが、もとより拠るところを知らぬ。太宰管内志には文化十年の壱岐島式社考を引いて、祭神天忍穂耳尊手力雄命たちからおのみこと天鈿女命あめのうずめのみこととある。また手長比売神社の祭神は、同書に壱岐図説を引いて、忍穂耳尊の妃栲幡千々姫命たくはたちちひめのみことと、稚日命・木花開耶姫命豊玉姫命玉依姫命だとしてあるが、果して旧説承けるところがあるか否かわからぬ。

喜田貞吉 手長と足長 土蜘蛛研究」より引用

いずれにせよ、手長や足長という存在を知るためには、もう少し足を運ぶところがありそうです。様々な神社を巡っていると、土地の歴史を知ることだけでなく、人との出会い、新しい知識との出会いがあるだけでなく、まだ見ぬ場所への誘いも得られ、自身の人生を豊かにしてくれるので、止められそうにありません・・・。

 

手長神社の御朱印(手が長いところがかわいい)

f:id:satts:20171119220405j:plain

足長神社の御朱印(こちらは足が長くなってます)

f:id:satts:20171119220700j:plain

 八剣神社の御朱印

f:id:satts:20171119221919j:plain