大いなる自己満足

中山さん(id:taknakayama)のエントリに触発されたので、少しだけ綴ってみようと思います。
がんばること(横浜逍遙亭)

中山さんのエントリのコメントにも書いたのですが、たまに実父が僕に話すことがあります。
「今の若い世代はかわいそうだ。コスト縮減、採算性重視でやりたい事もできない。これから先も給料が上がると思ってる人は居ないだろうし、会社を盛り立てて行こうなどとは思えないだろ?」
その言葉を聞いて、僕は冗談交じりに答えます。
「そう思ってるんなら、あなた方の世代が変われば良いんじゃないの?そうしたのは自分たちでしょ?」
そんな冗談とも本気ともつかない言葉を、実父は笑いながら「それは申し訳ないと思ってるよ。もう物質的に飽和しちゃったんだろうなぁ…」と決まったように話すのです。

結局、そういう事なのだと思います。一世代前は、物質的なものを求めても良い時代だったのですが、現代は物質的に飽和し豊かになりすぎてしまったのだろう…と言うことです。だから、インターネットなどのソフトウェアに目を向けざるを得ないのかもしれません。そのような時代だからこそ、”頑張る”ってなんだろう?って思う人が多いのかもしれません。
僕が思うに、日本はバブル期の頃から頑張っている人を軽視する傾向が強くなったと思います。”クール”とか”自分らしさ”という言葉で誤魔化して、楽な方に逃げる事を正当化しているようにさえ見受けられます。ついでに個人的な意見を言いますと、そもそも”頑張って何になるか?”とか”自己の存在理由”などを先に考え、損得勘定をしているから逃げ腰になってしまうのではないのでしょうか…。結果が見えないとやらないのではなく、やったからこそ見える何かが必ずあるはずです。ここは、ニワトリとタマゴの話になりかねませんが、頭の前に手を動かす方が僕は好きなのです。

なぜ僕が上記のように考えるのか?それは、僕の成長過程にあると思います。僕は様々な面で恵まれた環境に生きてきました。小学校の先生は、藤沢市科学少年団と言う団体の活動に誘ってくれ、様々な自然環境の事を土日の活動を通して教えてくれました。中学校の先生も、(体罰付きだったものの)頑張ることの大事さを教えてくれました。頑張ってる人を遠巻きにヘラヘラ笑ってる人の方が格好悪い…と思うようになったのはこの頃だと思います。悪い事もたくさんしましたし、たくさん遊びましたが、その分やるべき事は頑張ったと今でも言えます。ただ、それは僕が頑張ったのではなく、周りの友達が頑張っていたので僕も引きずられた…と言った方が正しいかもしれません。高校時代も学生時代も、少なからず僕の周りには頑張っている友達が必ず居ました。頑張ってる事は友達それぞれでしたが、ちゃんと自分の手で何かを掴もうとする姿勢があり、個々人の信念を持っていたと思います。だから、僕は今でも恵まれた環境に生きてきたなぁ…と友人たちに感謝していますし、これからも大事にしていきたいと思っています。話が脱線気味ですが、そんなこんながあって、上記のように考えるようになり、頭より先に手を動かして足掻き続きてる訳です。

さて、”頑張る”ってなんでしょう?
僕は”頑張る”と言うことは自己と向きあうことにあると思います。結局、報酬が欲しいから頑張ったって長く続かないと思うんです。自分の理想に何処まで近づけるか?という点のみに頑張れるのでしょうか。その理想は何でも良くて、個々人の短期スパンでの目的(仕事でも勉強でも)といったものから、自身の夢(野球選手になるとか、パン屋さんになるとか)まで幅広いものになると思います*1
おそらく最後まで頑張れることは、自己実現に対することがほとんどだと思います。自己実現(例えば好きなこと)には、頑張れる訳です。そう考えれば、基本的に”頑張る”という行為は、人の為ではなく自分の為という内向的ベクトルになるますので、最終的には自己と向き合うことに繋がっていくでしょう…と言うのが僕の考えです。
自己に向きあうということは、自己満足に繋がります。どれだけ自身の行為に満足出来るか?それが、”頑張る”という事なのだと僕は思うのです。とことん自己に満足していれば、結果はついてくると思います。
僕の好きなマンガに「キリン」というバイクのマンガがあります。その中に「武ぬ(自)に惚れて、何が悪い?」という台詞がありました。頑張れば、自己に満足でき、自身に惚れることで自信が付くのだろう…そう僕は思ってます*2

*1:要するに、色々な言葉を並べて誤魔化しても、自分らしく居るために頑張っている自分が必ず何処かに居る訳です。だから、頑張っていない人は居ないですし、皆が頑張っている訳ですから、それに後ろ指を指すような事は格好悪いと思うのです。

*2:こんなエントリを書いていることも、ブログを続けていることも、全て自己満足だったりします。